現代、印金で作られた袈裟で全体が残っているものは非常に少なく、それらの宗教的と物的な価値において、大変貴重なものである。「応夢衣」という袈裟はおそらく最も有名のである上、最古の印金で作られた袈裟だと思われている。25条の袈裟であり、僧侶が宮殿で行った拝謁の際に付けた「大衣」(だいえ)という袈裟の種類である。技術的に、藍色と黄色の絹の綾織の裂を縫い合わせ、表面に唐草模様を金泥で描いた。応夢衣は歴史に印金の名品として知られているが、厳密的にいうと、印金ではなく、描金という技法で作った作品である。昔、お寺が所有した袈裟で、状態が悪かったため、岡墨光堂という京都にある修理工房に施した。修理には10年を要し、その後、1962年に京都国立博物館に購入された。E国宝のホームページで、応夢衣の全体写真と拡大写真が見られる。
応夢衣の全体の名称は浅葱地牡丹唐草模様印金袈裟である。「応夢衣」という名前は、夢で伝わったという意味で、この袈裟にまつわる伝承に由来している。昔、応夢衣は京都の南禅寺の竜湫周沢(1308年~1388年)という僧侶の物であったという。ある夜 、周沢は、南宋時代に生きていた無準という有名な禅僧侶に、袈裟を伝えてもらう夢を見た。翌日、この夢に現れた袈裟を実際に手にしたそうだ。この話は伝承でありながら、禅宗において、伝法衣の重要性を明らかにする。弟子が袈裟を継承することにより、僧侶の教えを実現する。物的な値よりも、袈裟は、所有した僧から値を得るわけだ。なので、応夢衣の歴史で、政治的な歴史も理解することができる。天竜寺では、周沢の宗匠はソウセキ・ムソウという僧侶であった。ソウセキが亡くなった時、周沢とミョウハというソウセキの弟子の二人が承継争いをした。その際、自分の評判を良くするために、二人とも、ソウセキより有名な無準が所有していた袈裟を得たことを主張した。
長い間、応夢衣は南宋時代の袈裟と考えられていた。しかしながら、最近の研究によると、袈裟にみられる唐草模様は高麗時代(9~14世紀)の様式に近似しているため、朝鮮の作品と考えられている。
ミョウハの袈裟も重要文化財と指定され、E国宝のデータベースでみられる。この袈裟は元時代(14世紀頃)の作品と思われている。
筆者は、大変幸運で、応夢衣を近くに見ることができた。綾に、ギリシア雷文の格子に小花と丸龍の柄が表れている。この柄は、表装裂の柄レパートリーに、「応夢衣模様」という名称で記載されている。
写真では目立たないが、金泥の模様は、藍色の綾地だけでなく、黄色の部分にも描いてある。データベースの写真で、この模様は暗い色の線にように映っている。金泥は厚く塗ってあり、模様は一つづつ微妙に異なる。顕微鏡で観察すると、接着剤は泥の欠損の箇所も見えないほど、薄くて無色な素材である。金の粒子も非常に細かく見える。他の古印金の大半と違い、ひび割れが全くない。UVライトで検査すると、染料の藍が蛍光している。
修復前、袈裟の保存状態はよほど悪かったようである。岡墨光堂の修復の際、綾を復元し、袈裟をその本来の形に戻した。古い綾は修理の綾に糊で固定された。以前からあった修理された部分は、そのまま残された。