中国での印金の歴史
中国においては、生地に金銀を使って加飾する技術は長い歴史があり、漢時代(紀元前2世紀~紀元後8世紀)に遡ると考えられる。これらの技法は大きく3つに分類できる。描金、または泥金という技法は、金泥粉を接着剤に混ぜ、生地に筆で直接描く。印金という技法は、型紙を通して接着剤を置き、その上に金箔を押す。銹金という技法は、型紙を通して、金を直接押す。その他の古い技法として、金属製型板で金泥を印刷する技術もあったようである。馬王堆漢墓(紀元前186年、湖南省長沙市)では、顔料と金銀で印刷された模様で装飾された紗の裂が発掘された。金銀の模様は、接着剤を混ぜた金粉と銀粉で、金属の型板で印刷されたという。
1982年に、広州市にある南越王の墓で(前漢紀元前206-8年)、模様が彫り込まれた金属製の板が二枚発掘された。この板に見られる模様が湖南省博物館所有の紗の断片に見られる模様に似ているため、この板は織物に文様を印刷するための型板だと思われる。湖南省博物館で行われた裂の復元作業によっても、この仮説が裏付けられる。
作品の註と写真が湖南省博物館のサイトに掲載されている。
しかし、衣服においての金を用いた加飾技法は12世紀から13世紀にかけて発展したようで、これらの遺物は遼と晋、南宋、そして元時代の墓から多く発掘されている。その中には、描かれた金も、印刷された金もある。
遼朝は907年から1125年にかけて、現代モンゴリアと東ロシアの一部を統領した。
遼の宮廷文化において、金が重視されていた。国家に管理されていた工房では、遼国人と中国人の職人が協力していた。腸線に金箔を押し、細く切り、絹に合わせ織られた金襴のほか、印金も作っていた。内モンゴルの耶律羽之(やりつ うし)の墓から、金で印刷された衣服が発見されている。模様は紗地に印刷され、接着剤は、色や見た目が見られないため、とても薄く置いてあると考える。
遼朝に続く晋朝では、その技術を継承し、印金を製作し続けた。阿城区(黒竜江省)にある斉国王の墓では、多くの染織品が埋葬されており、これらの中には金泥で描かれている花文模様の絹の紗の縁が発見されている。
描金ではなく、型紙を用い製作された印金は、南宋時代に飛躍的に発展した。宋時代は、北宋(960年~1127年)と南宋(1127年~1279年)に分かれ、南宋は遼朝と同期に東中国で統領した。南宋の墓から、型紙を用い、金箔で印刷した多くの染織品が発見されている。当時、中国で、この技法は銷金と名付けられていた。黄升の墓から(福州、福建)襟に木花模様を金で印刷した衣服が何枚か発見されている。資料によると、この作品の色は濃く、文様の立体感が強い。
杭州市シルク博物館のホームページで、博物館に収蔵されている二枚が掲載されている。
南宋は絵と型押しを合わせた技法も修めていた。あるときは、型板で文様の輪郭を印刷してから、筆で色を足していた。もう一つの技法は、まず主要な文様を型板で印刷し、そして筆で輪郭を描く。このような複合的な技法は、手間があまりかからない印刷技法と、手書き技法の独特性を組み合わせて行なわれた。
モンゴル朝は、チンギスハンの征服の結果で、南中国から中東まで及び、中国では元朝(1271年~1368年)と呼ばれている。元代の印金は、宋代の作品と同じ技法で製作されたようである。杭州市シルク博物館に、印金で装飾された衣服が何枚か保存され、その本来の形がほぼ完形で残っている。墓の中に、死者を、服を何枚も重ね着せ埋葬していたおかげで、良い状態で残っている。何点かの作品を博物館のホームページでみれる。
緑色の半袖の上着は、全体的に残っている押分印金の服として、非常に珍しい遺物である。服のそれぞれの部分により、文様のバリエーションを作り出すのに、少なくとも型紙を3枚用いた。服を仕立てる前に、その形に合わせ、文様を印刷したと考える。作品の註によると、上着の前身頃は石畳形の花文様、後ろ身頃と袖は、大きめの鳳凰と牡丹唐草文様、縁は雲文様を表している。長袖の上着は、半袖の上着の下に着せ、水玉とキリン、もしくは鹿文様で装飾されている。
印金の製作は明時代初頭にかけ行なわれ、印金を用いた美術品は15世紀に多数伝来したという。『和漢錦繍一覧』によれば、上代印金の輸入は漢文(つまり17世紀の末)に止んでしまった。大陸自体では印金の生産が途絶えたからだろうかと考える。
印金の伝来
中国製の印金は主に室町時代(1333年~1573年)に日本に伝来したといわれている。
最初に、印金は袈裟として輸入されたと思われる。袈裟は、インドから日本にかけて仏教において僧侶が付ける衣服である。四角い裂の部分何枚も縫い合わせ、構成されている。袈裟の素材と構成は、仏教の原理に基づき規制されながら、時代と宗派により、その美的が多様化し、非常に高級な衣服も生み出された。
禅宗では、「伝法衣」という伝統は、僧侶から弟子への教えを、袈裟の伝来により象徴する。南北朝時代(1333年~1392年)にあたり、日本は中国と通商を正式に行わなかった頃、禅宗は、海を渡り旅していた僧侶を通して日本に普及し始めた。12世紀に入り、日本の僧侶が約200人中国へ禅宗を学びに行き、中国の僧侶が約30人日本へ教えに行ったことが分かる。僧侶は、禅宗の教えと共に、伝法衣の風習も日本へ伝えた。そのわけで、現代日本に保存されている13世紀の袈裟は、印金の袈裟を含め、中国製の作品が多い(「応夢衣」の項目に参照)。
これらの例としては、京都国立博物館に、14世紀の紫羅地印金9条袈裟が二具保存されている。2010年に行なわれた袈裟の展覧会の目録に掲載され、その一具はネット上でみられる。
15世紀初頭、造船と航海術の発達と共に、朝鮮と中国に対しての貿易は飛躍的に拡大した。対明貿易の記録には、毎年大陸からの輸入商品が記載されている。初期の頃から調度品や、寝具類および、染織品が多かったようだ。例を挙げると、1406年の記録に、紺色印金で作った蚊帳が記載されている。当時、金襴も多数伝来したという。金襴は、絹糸と、金箔を押した腸線、もしくは紙の細い線で織った織物であり、中国では発祥が6世紀に遡る。尋尊大僧正記の1486年の条に、中国から輸入すべきものの中に、「道士の古衣」、またはいろいろな印金をもちいた古着が記載されている。指しているものは、明らかに袈裟である。状態が悪くても、古着は日本で売買され、損傷のない部分を再利用し、利益を得ることができた。
室町時代から徳川幕府の初期にかけて、印金で装飾された大きい生地を輸入し続けたようだ。『原色茶道大辞典』によれば、現在、日本に残っている印金の大半は明代のものであり、その前に輸入された作品がほとんどみられないようだ。1804年に掲載された『和漢錦繍一覧』によれば、印金の輸入が漢文に、つまり1661~1662年のあたり、途絶えた。
しかし、印金の歴史はそれで終わるわけでなく、印金の技法は朝鮮や日本で模倣された。日本において、その主な目的は、表具に使用される生地を作製することだったと思われる。